[CD-R盤]
チャイコフスキー/交響曲第4番 ヘ短調 OP.36
ベルリオーズ/歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲
フリッツ・ライナー指揮 シカゴ交響楽団
1957.11.21, 12.5、シカゴ・オーケストラ・ホール
MONO ライヴ録音
録音状態良好。米マサチューセッツ州在住のエアチェック・コレクターによる提供音源。
FM放送のエアチェックとのことだが、受信ノイズは皆無で音質は良好、モノラル録音完成期のライヴ録音であるため、音質は当時の水準を上回る。
シカゴ響(CSO)の公演は、地元ラジオ局WFMT またはニューヨークのWBAI-FM が中継していたため、そのどちらか、または両局の音源を借りたマサチューセッツ州のラジオ局WGBH による放送をエアチェックしたものだろう。
2曲とも、かつてCSO の自主製作CDに収められていたが、当ディスクのソースとは別系統と思われる。会場ノイズは極小。但し、ライナー時代のCSO ライヴ音源の多くは、会場ノイズが異常に少なく、また明らかな演奏ミスが無いなど、放送前に何らかの編集が行われているようだ。
ディスク化に当たっては、チャイコフスキーは低音が強め、高音が不足気味で歪みがあったため、補正してバランスを取り直している。またベルリオーズは若干ダイナミック・レンジが若干狭い印象だったため、ソフトウェアを使用して拡大させているが、いずれも違和感なく仕上がった。
両曲ともCSO 定期における演奏。
11月21日はシューマン「マンフレッド序曲」、ヒンデミットのヴァイオリン協奏曲(ジョセフ・フックス独奏)、休憩をはさんで後半にチャイコフスキー。
12月5日はベルリオーズに続いてヒンデミットのチェロ協奏曲(ヤーノシュ・シュタルケル独奏)、休憩をはさんでムソルグスキー「ホヴァンチシナ」前奏曲、「展覧会の絵」というプログラム。ヒンデミットの協奏曲が重なっているが、ヒンデミット作品は1957〜1958年シーズン中この2曲のみであり偶然であろう。ポピュラー名曲と馴染みのない(当時の)現代曲の組み合わせは、レパートリーを広げる目的で行われ、現代のオーケストラ・プログラムでも見かける手法である。
ライナーは、チャイコフスキーの交響曲は第6番のみ米RCA にスタジオ録音を行っているが、CSO の定期演奏会では、第4番は1953年11月(3回公演)、1957年11月(当演奏を含む3回公演)、1961年12月(2回公演)、1962年10月(1回公演)。第5番は1961年4月(2回公演)のみ。第6番は、1956年10月(2回公演)、1957年4月(2回公演)と、第4番以外はあまり多くなかったようだ。
このように比較的演奏回数が多かった第4番のスタジオ録音を残さなかったのは、すでに米RCA には1955年録音のミュンシュ盤、1959年録音のモントゥー盤があり、単にレコード会社の営業政策によると思われるが、スタジオ録音を残した第6番についても、同様に1955年録音のモントゥー盤、1962年録音のミュンシュ盤があり状況は同じ。その辺りの理由は不明だ。もしかするとライナーも第4番のレコーディング予定があったのかもしれない。
演奏は厳しい客観性と適度なロマン性を兼ね備えたライナーらしいもの。
ライナーは、フルトヴェングラーより2歳下、クナッパーツブッシュと同い年ながら、基本的には非常にモダンな演奏スタイルといえるが、同時に、テンポの動きなど若干旧世代的な表現も混じるところが面白い。2歳年下にフリッツ・ブッシュがいるから(ドレスデン国立歌劇場音楽監督の前任と後任の関係)、彼と同様に新即物主義の影響も大きいのだろう(3歳年上にクレンペラーという例外的かつ特異なモダニストもいるが・・・)。
「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲は、シカゴ響在任中4回ほど取り上げているが、スタジオ録音は残さなかった。このようなオーケストラ小品を巧みに表現するのは、本質的に芸術というよりもエンターテインメントの場である歌劇場育ちの指揮者が得意とするところかも知れない。
フリッツ・ライナーは、今日ではCSO の黄金時代を築いたことで歴史に名を残しているが、1953年の音楽監督就任まで、CSO 側にはいろいろと紆余曲折があったようだ。
CSO は、37年間音楽監督の地位にあったフレデリック・ストックが1942年に亡くなった後、指導者が短期間で入れ替わる不安定な時期を迎え、デジレ・デフォー、アルトゥール・ロジンスキ、ラファエル・クーベリックが比較的短い任期で交代を繰り返していた。その理由は様々だが、デフォーについては、シカゴの有力な批評家クローディア・キャシディ(歯に衣着せぬ激しい批判と影響力から、恐れを込めて「アシディ・キャシディ(Acidy Cassidy:辛辣なキャシディ)」や「処刑人」などと呼ばれていた)の酷評と観客動員低下、団員との確執。
ロジンスキは、オーケストラの運営方針や高額なオペラ上演コストをめぐる経営陣との対立。
クーベリックについても、同様に批評家キャシディの酷評と観客動員低下、オーケストラの運営・経営陣との対立などが原因であった。
3人とも決して無能な指揮者ではなく、それどころか歴史に名を残す名指揮者たち(デフォーはややローカルな指揮者か?)。問題は、事前の少ない客演回数など、準備や調整不足のまま招聘を決定したことにあった。
当時のフリッツ・ライナーは、シンシナティ交響楽団やピッツバーグ交響楽団の音楽監督を歴任後、1949年からニューヨークのメトロポリタン歌劇場で活動していたが、シンシナティ響やピッツバーグ響在任中は、荒廃し士気が下がったオーケストラを、厳格な統率力と高い音楽的基準で徹底的に鍛え上げ、高いレベルへと引き上げるなど、「オーケストラ・ビルダー」としての手腕について評価が高かった。
このため楽団の立て直しを急務としていたCSO 経営陣にとって、ライナーは非常に魅力的な存在だった。しかもライナーは1937年夏のラヴィニア音楽祭でCSO を初めて指揮、その後もしばしば客演を重ねており、全く未知の指揮者というわけではなかった。
ただ、ライナー招聘に当たってもやはり準備期間は短く、これが果たして成功するのかどうか不透明。そもそもライナーの厳しい指導によって、オーケストラ・メンバーとの深刻な軋轢や摩擦が生じることは、最初から十分に予測され、実際に多くのトラブルや恐怖政治的なエピソードも事前に承知していた。当然、楽団員や音楽界の一部からは反発や懸念の声があったが、前任者たちの下で規律が緩み、オーケストラとしてのブランド力やアンサンブルの精度が低下していた状況下、経営陣は「生ぬるい指導者では組織を立て直せない」と考えていたという。危機感の方が勝っていたわけだ。
当時のCSO 経営陣や関係者にとっては、リスクを冒してでも「楽団の演奏水準を世界トップクラスに引き上げる」というメリットの方がはるかに大きいと判断して招聘を強行、一種の賭けのようなものだった。
一方、ライナー側はどのような状況だったか。
1948年にピッツバーグ交響楽団を辞任した後(この辞任はオーケストラ側の経営難と完全主義者ライナーとの対立が要因)、1948〜49年シーズンからメトロポリタン歌劇場に招かれ、1949年の「サロメ」の伝説的公演などで大成功を収めていた。しかし、1950年に歌劇場支配人がエドワード・ジョンソンからルドルフ・ビングに交代すると、芸術的権限や演出方針、キャスティングおよびリハーサルのスケジュールなどでことごとく対立し、ビングは、ライナーの得意とするリヒャルト・シュトラウスやワーグナーなどの演目に、他の指揮者(あるいはライナーより格下とみなされた指揮者)を配役するようになる。ライナーは、何ら権限を持たない客演・首席級指揮者としての立場には限界があり、自身の芸術的コントロールが全面的に可能な、交響楽団のポストを再び求めるようになっていた。
その頃、CSO では、上記のようにクーベリックが地元批評家(特にキャシディ)の猛バッシングにより、音楽監督としての地位が危ぶまれていた。ライナーはこの状況を注視しており、CSO 側からのアプローチに対して即座に応じられる態勢を整えていたともいえる。
結果として、ライナーがCSO 音楽監督に就任した直後、地元シカゴの批評家や聴衆からの評価は「オーケストラの劇的な技術的向上に対する絶賛」と「冷徹・厳格な指導スタイルに対する困惑や摩擦」という、極めて対照的な二面性をもって受け止められたという。 地元シカゴの有力紙『シカゴ・トリビューン』をはじめとする音楽批評界は、ライナーがもたらしたアンサンブルの劇的な変化を全面的に支持した。特に、前任者たちを容赦なく酷評して辞任に追い込んできた批評家キャシディは、ライナーの着任を熱狂的に歓迎。彼女は以前からライナーを高く評価しており、初采配直後から、その圧倒的な精密さ、緻密なバランス、ダイナミクスのコントロールを称賛し、シカゴ交響楽団が瞬く間に「世界最高峰のアンサンブル」へと変貌したと評価した。その他の地元メディアも、ライナーが得意とした最小限のタクトから導き出される完璧な合奏精度、音色の透明感を絶賛した。
このように音楽的な結果は高く評価された一方で、オーケストラ内部や音楽専門家の間では、ライナーの極めて厳しい指導方法が大きな波紋を呼んだ。ライナーは完璧主義者であり、リハーサルでは団員に対して容赦ない要求を突きつけ、ミスをした団員をその場で解雇(あるいは解雇を匂わせるプレッシャーをかける)することも辞さない冷徹な姿勢から、楽団員や関係者の間では恐怖と畏怖の対象となった。また、一寸の狂いも許さない厳格なアプローチは、「冷たい」「機械的すぎる」と一部で批評されることもあった。しかし、リハーサルで徹底的に追い込む一方で、本番ではオーケストラから驚異的な集中力と豊かな色彩感を引き出す手腕自体は、専門家筋からも認めざるを得ないものだった。
シカゴの聴衆にとって、ライナー時代は地元オーケストラが世界的な名声を確立していく誇らしい時代だった。ライナーがもたらした圧倒的な合奏力と、重厚なロマン派や近代作品の演奏は、定期演奏会のチケット価値を飛躍的に高め、聴衆は洗練された音響に熱狂した。一方で、ステージ上のライナーは身振り手振りが極めて小さく、客席に対するパフォーマンスや愛嬌は皆無。そのため、前任クーベリックのように「地元で親しまれるスター」というよりは、「圧倒的な手腕を持つ冷徹な巨匠」として一線を画した存在として見られていた。
地元シカゴでは、人間的な親しみやすさの欠如や恐怖政治的指導への反発はありつつも、CSO を世界一級の精密機械であり芸術体へと鍛え上げた圧倒的な成果に対しては、批評家も聴衆も納得せざるを得ないというのが実態だった。
※総合カタログは下記を参照下さい:
https://www.ne.jp/asahi/classical/disc/index2.html
*【ご注意】
当商品はCD-R盤です。CD-Rは通常の音楽CDとは記録方法が異なり、直射日光が当たる場所、高温・多湿の場所で保管すると再生出来なくなる恐れがあります。
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レーベル: PREMIERE
品番: 60083DF
Stereo/Mono: Mono
録音: 1957.11.21, 12.5、シカゴ・オーケストラ・ホール、ライヴ録音