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商品詳細

[新品CD-R] AURORA アーベントロート&レニングラード・フィル、ライヴ/チャイコフスキー 交響曲第5番

販売価格: 1,900円(税別)
数量:
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[CD-R盤]
 
チャイコフスキー/交響曲第5番 ホ短調 OP.64
 
ヘルマン・アーベントロート指揮 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
 
1954年10月31日、レニングラード・フィルハーモニー・大ホール
モノラル、ライヴ録音
 
アーベントロート&レニングラード・フィルによるチャイコフスキー交響曲第5番という注目すべきディスク。ドイツ・ハンブルク在住ロシア人コレクターの提供音源。同作品では現在確認されているアーベントロート唯一の録音と思われる。エアチェックではなく、放送響保管音源のコピーと思われる(モスクワ・オスタンキノ放送局か?)。
オリジナルはレニングラード放送局によるライヴ録音だが、当時のソ連の水準を上回る好録音。マイクセッティングも適正でバランスも良好。会場ノイズもほとんど聞こえない。ただし、当時のソ連の放送録音の多くに見られるように、家庭のラジオで聴くことを前提として、リミッターをかけすぎており、弱音が大きすぎる一方、フォルテやフォルティッシモが抑えられ、多くが「空振り」に終わって迫力不足が否めなかった。ディスク化に当たっては、マスタリングによりきめ細かくダイナミックレンジの復元作業を行い、ようやく本来の演奏の姿が蘇った。結果的に西ヨーロッパ諸国の同時期の放送録音と同等の音質といえる。
 
アーベントロートは第二次世界大戦前からレニングラードやモスクワのオーケストラに客演していたが、戦後は1951年と1954年にソ連を訪れた。ちなみに1951年にソビエト国立響を指揮したベートーヴェン第9、1954年に同じくソビエト国立響、リヒテル独奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番がCD化されている。
1954年のレニングラード・フィル客演の際は、3回の公演を行い、

10月28日
ベートーヴェン:交響曲第3番
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(ミハイル・ヴァイマン独奏)
10月29日
ショパン:ピアノ協奏曲第1番(ベラ・ダヴィドヴィチ独奏)
ブラームス:交響曲第1番
10月31日
ヘンデル:合奏協奏曲 ニ長調OP.6 第5番
ベートーヴェン:交響曲第1番
チャイコフスキー:交響曲第5番(当ディスクの演奏)
 
というものだったらしい(資料の不備があり必ずしも正確とはいえない。28日と29日は、それぞれもう1曲演奏されたように想像される。ただし、28・29日と日程が近接しているため、リハーサル時間が取れず、2曲ずつのプログラムになっている可能性もある)。
 
チャイコフスキー交響曲第5番の演奏について、アーベントロートはあくまでドイツ流のチャイコフスキー解釈を貫いているようだが、チャイコフスキーを得意とするソ連のオーケストラ、しかも交響曲第5番を名刺代わりに頻繁に演奏したムラヴィンスキーが常任指揮者を務めていたレニングラード・フィルで同曲を指揮したことは、ソ連におけるアーベントロートに対する評価が高く、信頼されていた証しかも知れない。もっとも、アーベントロートとムラヴィンスキーは20歳も年齢が離れており、当時アーベントロートは東独随一の大指揮者である一方、ムラヴィンスキーは名声は高かったものの50歳を過ぎたばかりの中堅という位置づけだったことも想像され(当時は先輩格のサモスードやガウクなども健在だった)、アーベントロートはあくまで客演指揮者として、たまたま同曲をプログラムに載せただけとも考えられる。ちなみにムラヴィンスキーは同年6月と12月に同フィルでチャイコフスキーの5番を取り上げており、シーズンをまたがっているとはいえ、同一年に同じ作品を三度も演奏することは少々異例ともいえる。
 
アーベントロートについて、当時のソ連の専門家たちはどのように評価していたのだろうか。
音楽専門誌「ソヴィエツカヤ・ムジーカ」の記事では、彼のスコアに対する柔軟かつ即興的なアプローチに注目し、作品の構造を強固に保ちながらも、テンポのアゴギーク(加減速)やダイナミクスの急激な変化を駆使して、音楽を生々しく躍動させる手法は、客演先のソ連系オーケストラ(モスクワやレニングラード等)の緊密な合奏力の間に、強い緊張感を生むものとして認識されていたようだ。
ソ連の専門家たちは、彼を「19世紀ロマン主義的伝統を身にまとったまま、ソ連のオーケストラに熱量とダイナミズムを注入した稀有なドイツ人指揮者」として見なしていたという。「19世紀ロマン主義的伝統を身にまとった」という記述は、現代のアーベントロート評価と一致する。
 
アーベントロートは、同世代のドイツの指揮者と同様、そのキャリアが当時の政治状況とは無関係ではなかった。1934年には、ナチス政権により、アーベントロートは当時務めていたケルン音楽大学学長とギュルツェニヒ管弦楽団の楽長のポストを解任され、一時は拘束までされた。その理由としては、主に彼の政治的立場が「自由主義的」「ユダヤ人に好意的」であるとされたこと。また、アーベントロートはナチス台頭以前にソ連を何度か訪れて同地のオーケストラに客演し、ソ連音楽界とも良好な関係を築いていたことにより、「共産主義者・左派的」あるいは「反国家的・反体制的」であるとみなされた。しかし、ケルン芸術界の有力者たちによるとりなしや介入があり、同年秋には、ナチスによって追放されたブルーノ・ワルターの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長に就任、その後、1937年にはナチ党へ入党することになる。この辺りは、アーベントロート自身は特に政治信条にこだわりはなく、周囲が勝手に政治的スタンスのレッテルを貼っていたということだろう。
 
その後、1945年5月の第二次世界大戦終結時、ライプツィヒを最初に占領した米軍は、アーベントロートが「1937年以降のナチ党員であった」という事実により、同年6月、ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長およびライプツィヒ音楽院教授の職を解任・公職追放した。しかし、同年7月にライプツィヒの占領主体が米軍からソ連軍へ交代すると、非ナチ化の運用方針が大きく変化。ソ連占領当局および地元のドイツ人非ナチ化委員会は、文化人の復帰にあたって「名目的な党員(Mitläufer=同調者)」と「積極的なナチ活動家」を厳密に区別する方針をとった。アーベントロートは、1934年にナチスによってケルン音楽大学学長職などを追放された際、彼が「ユダヤ人に好意的」「親ソ・親共産主義的」として弾劾されていた記録は、ソ連当局にとって「ナチス被害者」「反ファシズムの素地がある人物」という強力な免責・擁護の証拠となった。また、1937年のナチ入党がその職位保持のための形式的なもの(単なる名目的党員)であり、党大会や政治運動に参加していなかったことも考慮され、さらに、バイロイト音楽祭(1943/44年)におけるワーグナー「マイスタージンガー」指揮などは政権への協力とみなされうる行為だったが、「ナチスの宣伝機関として積極的に機能した人物(例:フルトヴェングラーやカラヤンのような存在)」とは異なり、単なる技術的・芸術的客演の範囲内(名目的同調)と判断された。
 
これらの事情が総合的に考慮された結果、1946年には非ナチ化審査を正式にクリア(潔白・または問題なしと認定)、同年12月にはチューリンゲン州首相から「ワイマールの芸術的伝統の復活に対する特命」を受け、シュターツカペレ・ワイマール(歌劇場管弦楽団)の音楽総監督として公式に復権した。ただし、ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長ポスト復帰については、解任直後に後任(ヘルベルト・アルベルト、次いでコンヴィチュニー)の選任がすでに決定していたこと、ナチス時代の象徴的トップをそのまま戻すことへの政治的配慮から見送られた。
 
一方1949年5月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。この間、東ドイツでは、各地の放送局の組織や機能が社会主義体制の統制下へと組み込まれ、文化・宣伝活動を担う重要な放送オーケストラとしての役割が明確化されることになった。1923年設立のライプツィヒ放送交響楽団も演奏水準向上のため、アーベントロートが首席指揮者として招聘された。この間、追放と復帰の繰り返しであり、まさに政治に翻弄され続けたキャリアであるが、それだけにアーベントロートの存在が大きく、そのポストが象徴的だったことを意味している。
 
ところで、一般的に当時のヨーロッパでは、放送オーケストラの指揮者ポストは、コンサート・オーケストラや歌劇場の指揮者ポストよりも一段低く見られる傾向があったが、当時、東ドイツ随一の指揮者であったアーベントロートが招聘された背景には、上記のような、電波による国家的文化宣伝政策があった。このため、東ドイツ国営放送(Rundfunk der DDR)傘下のオーケストラ(ライプツィヒ放送交響楽団と東ベルリンのベルリン放送交響楽団)には莫大な予算が投入され、優れた演奏家が優先的に集められた。
アーベントロートはライプツィヒ放送交響楽団に加えて、1953年からはベルリン放送交響楽団(東)の音楽監督(首席指揮者)を兼任、東ドイツ放送・音楽文化の象徴として君臨。東ドイツ政府としても、名実ともに最高峰の巨匠を放送オケの頂点に据えることに大きな意義があったということになる。
 
とはいうものの、アーベントロートは放送オーケストラのみ指揮活動を行っていたわけではない。ベルリン国立歌劇場(シュターツオーパー・ウンター・デン・リンデン)やドレスデン・シュターツカペレ、ゲヴァントハウス管弦楽団には、客演指揮者として頻繁に客演し、定期演奏会や特別コンサートを数多く指揮していた。
1949年の東ドイツ建国時点でアーベントロートはすでに66歳を迎えており、大歌劇場総監督(GMD)としての劇場行政管理や権力闘争に煩わされることなく、歌劇場管弦楽団指揮、コンサート指揮および放送録音に専念出来る環境(ワイマール+二大放送オーケストラ+主要オーケストラへの定期客演)は、晩年の彼にとって都合が良いポジションといえた。また、東ドイツ地域以外の指揮活動もさかんに行い、当ディスクに聴くソ連のほか、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアなどの東欧諸国にも客演を行った。ただし、西ドイツには、1950年5月に開催されたケルン音楽大学の25周年記念式典における、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団(ブルックナーの交響曲第3番など)、1956年1月、バイエルン国立管弦楽団(ブラームスの交響曲第1番など)の指揮に限られた。
 
アーベントロートが没する1956年は、ベルリンの壁が築かれる(1961年)5年前であり、当時は、東西ドイツ間の政治的対立は激化しつつも、音楽家の往来や客演は比較的自由に行われていた。このように自由に往来出来た時期、カイルベルトやケンペは東ドイツ政府の圧力を嫌い、西ドイツに拠点を移したが、アーベントロートは、単に「東側に住んでいた音楽家」というだけでなく、東ドイツの国家体制に深く組み込まれた要人であった。彼は同国国民議会の議員を務めており、ライプツィヒ放送交響楽団や東ベルリン放送交響楽団の首席指揮者、ワイマール音楽大学学長などの主要なポストを務め、1949年には東ドイツ最高の賞である「東ドイツ国家賞」を授与されるなど、東ドイツの文化政策や政治において極めて重い公的立場を担っていた。その他の音楽家一般が往来出来たとしても、東ドイツの国家運営に深く関与していたアーベントロートのような大物が、西側の占領地区(のちの西ドイツ)に頻繁に出入りすることは、東西冷戦の激化に伴い極めてデリケートで困難な問題となっていった。西ドイツ側の主要オーケストラから見ても、東ドイツの政治的シンボルの一人となっていた彼を招くことは、政治的・組織的な障壁が存在した。アーベントロート自身も、自らの活動基盤を完全に東側に置き、そちらでの演奏会や教育活動、放送録音に専念する道を選んだということだろう。とは言うものの、上記の華々しい社会的地位や栄誉について、アーベントロート自身が望んだというよりも、東ドイツ政府の文化的プロパガンダの下、祭り上げられたという印象が強く、本心がどうだったかは不明だ。
 
アーベントロートはチャイコフスキー交響曲第5番のスタジオ録音を残さず、当ディスクが現在確認されている唯一の録音と思われる。
 
 
※総合カタログは下記を参照下さい:
https://www.ne.jp/asahi/classical/disc/index2.html
 
*【ご注意】
当商品はCD-R盤です。CD-Rは通常の音楽CDとは記録方法が異なり、直射日光が当たる場所、高温・多湿の場所で保管すると再生出来なくなる恐れがあります。
また、CD・DVD・SACD再生兼用のユニバーサルプレーヤーや、1990年代以前製造の旧型CDプレーヤーなどでは再生出来ない場合がありますが、メーカーや機種の異なるプレーヤーでは再生出来ることもありますので、複数のプレーヤーをお持ちの場合はお試し下さい。
商品詳細
レーベル:AURORA
品番:AK30013
Stereo/Mono:Mono
録音:1954.10.31、レニングラード・フィルハーモニー・大ホール、ライヴ録音