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ホーム店主日誌2016年1月
2016年1月
店主日誌:3
2016年01月22日
 

 
昨年から楽しみにしていた、巨匠スクロヴァチェフスキーが読売日本交響楽団を振るブルックナーの交響曲第8番・特別演奏会を聴いてきました。

会場は池袋の東京芸術劇場。スクロヴァチェフスキーは今回、この木曜日と2日後の土曜日、2回のコンサートだけのために来日したようです。曲もブル8のみ、文字どおり特別演奏会です。

今日本ではとても人気のある指揮者ですので、よくご存じの方も多いと思いますが、ミスターSこと(名前が長く綴りも難しいので世界共通の通称となっています)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキーは'23年ポーランドのリヴォフ(現在はウクライナ領)生まれといいますから、今年で何と92歳となる現役世界最長老。
戦後パリで学んだ元々作曲家でもあり(7才でオーケストラ曲を作曲!)、'58年のアメリカ・デビュー以降、とくにミネアポリス交響楽団(後にミネソタ管弦楽団)では20年近くに渡って音楽監督を務め、レコード・ファンにはステレオ初期のマーキュリー・レーベルでの活躍でお馴染みです。

読響では2007年~10年の間、第8代常任指揮者を務め、すでに互いに厚い信頼を寄せ合う関係が築かれています。
店主も現役指揮者の中で最も敬愛する一人ですので、読響やN響との演奏会を何回か聴いてきましたが、ここのところずっとサボっていて、実演で聴くのは多分10数年ぶりではないかと思います。

客席は満席(2日間ともチケット完売!)、開演前から尋常ならざる熱気に包まれています。
通常、有名曲とはいえ重たいブルックナー1曲のみのプログラムで平日夜のコンサート、これほど席が埋まるのはそうはないでしょう。

いよいよ聴衆の前に現れたミスターSは、店主にとっては久し振りだけに、前回の記憶にあるのと比べると腰が少し曲がり、脚が悪いため指揮台への歩みはゆっくりで心配になるほど。
にもかかわらず指揮台には休むためのスツールもなく、老巨匠の心意気を感じます。ブルックナーの8番は1曲で1時間半近くもかかる大曲で、普通の人でも神経を使いながら休みなく立ち通すのはかなりの苦痛です。
指揮台に上がり聴衆に向かってお辞儀する間の拍手は、明らかに並のコンサート終了後の拍手以上の盛大さ。皆の期待の大きさがうかがわれます。
タクトを取ってさっと身構えた瞬間、視線は鋭く、棒を振る動きはきびきびと別人のように変貌。座っているのが1階6列目右寄りと、かなり前の方の席のため、ミスターSの指揮の様子が横の方から表情までかなりはっきり見えます。

第1楽章の開始は思いのほかテンポがゆっくりで、足元を踏みしめて進むような、意志の力を感じる進行です。
ミスターSは通常、かなり速いテンポで決して緊張を崩すことなく、敢えて余計な感情移入を避けているようにさえ聞こえるインテンポで進めることが多く、それが店主には場合によって少々淡泊に、いささか面白みに欠けて聴こえることがありました。
でも恐らくこれは彼の作曲家としての側面がものを言っていると考えられ、楽譜に書いてあることが全て、即ち作曲家の言いたいことは全てそこにある、との思いがあるのではないでしょうか。

しかしこの日のブルックナーは少し様子が違っていて、その原典主義が根底にありながら、もっと想いを赤裸々に表わすように聴こえます。
これには彼がかつてインタビューで、「最近になっていよいよブルックナーを振ることは私にとって特別なものになっている。ブルックナーの音楽との真の一体感を感じる」といった趣旨を語っていたことを思い出していました。

音楽は進むごとに熱を帯び、響きは厚く意志がみなぎり、すでに巨大な姿を見せていますが、同時に細部まで見通しが利き、神経が行き届いて、全ての音が生きています。
これは第1楽章だけで優にひとつの交響曲を聴くほどの体験です。
終わり近く金管が咆哮する「死の告知」のすさまじいこと。思わず息が止まります。
20分に近いこの楽章も、あっという間に終わってしまいました。

タクトを休めることなくそのまま第2楽章、スケルツォに突入。
これは最後まで聴いた後に感じたのですが、第1と第2両楽章をひとつの動的な音楽として捉え、次の最も長大なアダージョが中間部、最後にまた動的な第4楽章がくる、という対比で全体を構築しているように思えました。
そのためでしょうか、ミスターSとしては意外にも、第2楽章も、その前の楽章から引き継いで比較的ゆっくりとしたテンポで進められました。
その昔、ハンス・クナッパーツブッシュの演奏でブルックナーの8番に開眼して以来、この曲を聴くと常にそのゆっくりしたテンポが頭の奥で鳴るのですが、それと較べても遜色無いくらい堂々とした歩みです。
但しそこはミスターS、気力がみなぎりアタックは明確なので決して重くはならず、かつ巨大さは第1楽章そのままです。

そして今回の白眉であったアダージョ。
この楽章に限って言えば、少なくとも今までこれ以上のものを聴いたことがありません。「至福」というのはこのようなものを言うのかもしれません。
満足に浸りながら、30分近いであろう長大な楽章も、あっという間に終わっていました。
思えばこの部分が全曲のクライマックス、頂点に設定されていたようです。

その意味では終楽章、フィナーレはダイナミックなエピローグといった趣。
たっぷり楽章の間を取った後、開始されたそれは打って変わって快速で、ブルックナー自身の「コサック兵を弦楽、軍楽隊をトランペットのファンファーレで表す」という言葉通りの勇壮この上ない演奏です。
それ以降も揺るぎない意志の強さを示すが如くテンポは守られますが、最後のコーダにきて初めて僅かにテンポを落とし、今までの楽章のモチーフが重なり合いながら次第に響きを増していき、「生の勝利」を高らかに歌い上げるに至って驚くべきダイナミクスの盛り上がりをみせ、圧倒的な音の大伽藍のうち、最後の「肯定」の三連符をもって全曲が閉じられました。

すさまじい拍手喝さいとブラヴォーの嵐が巻き起こったのは言うまでもありません。
鳴り止まぬ拍手に、一体何回ミスターSは舞台上に呼び戻されたでしょう。歩くのに難儀するので申し訳ないと皆思いながらも、惜しみない称賛を贈りたいという気持ちが勝っていました。
最後は聴衆総立ちで、楽団員が全て引き揚げた後に指揮者だけ2回も呼び戻されていました。
こんな光景を見たのは朝比奈のブルックナー以来でした。

一体これが92歳となる人間の生み出す音楽でしょうか?
演奏会チラシにある『究極のブルックナー/響け、奇跡の90分。その全ての瞬間が永遠の記憶と化す』という謳い文句が聴いた後ではちっとも大げさでないばかりか、なんともうまく言い表しているとさえ感じられたものです。

今回の名演(もうこう呼んでもよいでしょう)には実力を十二分に発揮して老巨匠に応えた読響の力によるところは大きく、特に厚い響きで全体を支えた金管群のうまさには脱帽です。
どのパートもとにかく弱いとか危なっかしいということが皆無で、いかに指揮者に対して全幅の信頼、というより尊敬をもって楽団員が一丸となっているかがひしひしと感じられる演奏会でした(これは指揮者が何回も拍手で呼び戻されている間に、彼が立ち上がってと促してもオーケストラが応じず、総員で地響きと思えるくらいの盛大なリスペクトが示されたことにもよく表れていました)。

店主にとって久々に忘れ得ぬコンサート体験がひとつ、加わったのは間違いありません。
2016年01月18日
 

(産経WESTから)
 
お客様から教えて頂いた産経ニュースの記事をご紹介:

(産経WEST、2016.1.5)
『音楽の購入方法がCDからデジタル配信に移りつつある昨今、アナログレコードが復活してきた。
そこで注目を集めているのがレコード針を作り続けて今年で半世紀の老舗、日本精機宝石工業(兵庫県新温泉町)だ。
日本海に面した小さな町の従業員約60人の小さメーカーが手掛けるレコード針は世界で高く評価されている。その陰には、レコードが衰退した後も新ジャンルの製品を開発して生き残るしたたかさと、「一人でも欲しい人がいる限り」と製造し続けたレコード針への愛があった。

日本精機宝石工業がレコード針を製造し始めたのは昭和41年。
社名の英語表記からJEWEL(宝石)とINDUSTRY(工業)の頭文字に、企業を意味するCOをつなげたブランド「JICO(ジコー)」で展開し、今では国内外の約30社の製品に対応する交換針2,200種類を製造している。

売り上げの9割以上を海外が占めている。豊富なラインアップで、すでに製造中止となっているレコード針にも対応したことで、ネットを通じ世界中に評判が広がったのだ。
仲川幸宏専務は「アフガニスタンなどからも注文がある。製品を送る際に地元郵便局でとても驚かれた」と明かす。
「JICO」の名声は世界でも知る人ぞ知る存在になり、発送先は約200の国・地域に及んでいる。

そんな世界から注文が寄せられるレコード針は、工程の多くが手作業だ。
工業用ダイヤモンドを仕込んだ針先は直径0.25ミリ、長さ0.6ミリのサイズだが、女性工員らがルーペなどを使いながら組み立てている。

同社の前身は、明治6年創業の縫い針工場だ。蓄音機用の針製造を経て、昭和41年にレコード針に参入した。
昭和40~50年代は「SWING(スウィング)」というブランド名で、レコード店のカウンターに置けば瞬く間に売れたという。

しかし、57年に日本でCDの生産が始まると状況が一変した。音楽メディアがCDに入れ替わるなか、レコード針を取り次ぐ商社が倒産し、レコードにかかわる業界が斜陽化していった。

ここで同社が活路を求めたのは、レコード衰退の原因ともなった宿敵、CDだった。
CDプレーヤーの構造を研究したところ、内部のピックアップレンズが汚れると読み込みエラーを起こすことに着目。平成2年、CDの盤面に小さなブラシを付け、レンズの汚れを落とす「レンズクリーナー」を開発した。
DVDプレーヤーにも応用できたため、息長く需要は衰えず、主力商品として経営を支えた。
さらにレコード針に使ってきた工業用ダイヤモンドを別製品に加工。歯科用のドリルバーなどを開発し、経営の多角化を進めてきた。

その間も販売が落ち込み続けたレコード針。それでも製造し続けたのは、レコードがCDに主役の座を奪われるなか、当時の仲川弘社長(故人)が「一人でも欲しい人がいるなら作り続けよう」と決断したからだった。
レコードで音楽を楽しむ習慣が根付いていた欧米への輸出が底支えとなり、なんとか売り上げは会社全体の数%を保っていた。

こうした時代の荒波を乗り越えた先に待っていたのが昨今の世界的なアナログレコードの復活だ。当然、レコード針の売り上げも増え、会社全体の売上高の25%を占めるまでに回復し、主力商品に返り咲いた。
国際的な音楽団体「IFPI」によると、ここ数年はアナログレコードの売上高は世界的に伸び、2014年の世界での売上高は前年比約55%増の約3億4700万ドル(約416億円)に達した。

仲川専務は「地道にものづくりを続けてきた。これからも流行には流されず、JICOのファンを増やしながら、文化としてのレコードの価値を高めていきたい」と力を込めた』
2016年01月09日
 
地元荻窪のライヴハウス、ヴェルヴェット・サンでライヴがあるということで、取引先のSさんの計らいでヒグチケイコさんのレコ発ライヴ(CD発売記念)「between dream and haze」を聴きに行ってきました。

初めて行くこのライヴハウスは店から歩いて10分ほど、うちの店の2倍ほどの広さでしょうか。ビル1階のコンクリート打ちっ放しの空間にベンチシートが並んで、立ち見も出るほど満員状態。

ヒグチケイコさんはアメリカを中心に演奏,音楽理論,発声法などを習得、ジャズの名門であるボストンのバークリー音楽大学でも学んでいます。
ヴォイストレーナーとしの活動も長く、実際に聴いてみて分かりましたが、通常の歌唱というより発声と言った方がしっくりきます。

ジャズ・ヴォーカルとの先入観で行ったので、唸ったり,叫んだり,呟いたりするパフォーマンスに始めは面食らいましたが、歌というより発声という楽器が他のプレーヤーたち(ギター,パーカッション,ベース)と混ざり合って音響としてうねるさまを聴いているうちにだんだん納得していました。

Sさんに「これも一応ジャズのうちなのでしょうか?」と訊くと、「もはやこうしたものはジャンルを超えて、特に何と限定出来るようなものではないでしょう」とのこと、半ば答えが分かっていたような質問と反省しましたが、強いて言うといつも聴いているジャンルのなかでは現代音楽、それも前衛音楽のように聴こえたのは、多くの部分が即興に委ねられているからかもしれません。
ヒグチケイコさんも言っていたように、CDと同じ曲をやったとしても結果違った曲になるのは当然なのです。
そうなるとCDにする意味があるのかどうか、疑問は残りますが、やはりアーティストとしては折に触れてマイルストーンを残しておかないと気が済まないのかもしれません。

そうそう、ヴォーカルとともに、ナカタニタツヤという人のドラムス&パーカッションは実に様々な楽器と奏法(弦でシンバルを弾くのもなかなか)によって多彩な音響を創出して大変楽しませてもらいました。

とにかく、久々のライヴ体験でした。